文芸者と技術者との、言葉遣いの勘所は一八〇°方向が違うの

おれ
日本語下手です。
A. 技術者の日本語は、読み手が物事を一意に特定できるように書かないといけない*1
aaaがbbでgなんです、と技術者が言ったならば、
aaaがbbでg、と万人に伝わらなければならない。みたい。
いっぽう、
B. 文芸者の日本語は、読み手が想像力をかきたてられなきゃいけない。文芸者っつーか、一般的に言う「芸術」かんけいのひと。
つまり技術者と文芸者じゃ、言語を使った結果として受け取り手の感じ方がまったく違う。一八〇°逆を向いてるのだ。
文芸者じゃないけど、上記の B を目指してきちゃってたもんだから、最近とても本業で、にほんご表現の下手さに苦しんでいます
特に、具体的な表現を、なおかつ簡潔に行うのは、大変。ぼかすのが美徳であり綺麗な表現である、と思っていた私ですから、お腹が減ったときは

  • 腹に優しい系が良いな
  • アノ細長くてツルっとしたもの、が食べれる処が良いな
  • 素晴らしい愛のように滑らかで、グリーンで新鮮なヤツが良いな良いなイイナ

って言い方を、店選びの時にまぢでしてましたが、IT業界ではむしろ

  • おかゆ食べに行こう
  • 粥餐庁(かゆさんちん)に行こう
  • 君を食べよう

等、実に誤解の無いストレートな表現こそが、美しいのであるよ



ところで唐突ですが、日本画家の千住博氏が講演会でおっしゃるには、

芸術が成り立つには必ずコミュニケーションとイマジネーションが内包されている*2
だそうです。
私なりに理解すると、アートの条件とは2点

  • 受け手と伝え手がimagineすること
  • 伝え手と受け手がcommunicateすること

で、ブッ飛んだ例として、死者のお棺に花を敷き詰めるのは、

  • 死後の世界とのcommunication:未知の世界に旅立ってしまった仲間に対する土産
  • 残された人同士のcommunication:花を通して励まし合い、癒し合い

だそうな。
受け手の想像を喚起することがアートのひとつの条件である、と考えて良いのだろうとおもいます。お棺の例は、自分で引き合いに出しておきながら、条件に合うかどうか微妙ですが…
口語では、新しい言葉が随時産まれては消えていきます。
デニーズに行く?」と聞くのを「デニる?」と言ってみたり、「公園に行く?」という意味の言葉を「パークる?」と言ってみたり。そういった会話の中では、お互いに想像力を働かせ合って、言葉に共感し合ってる、一意に感覚を指定して共有してるんだ
充分、アートの条件に、合致すると思います

*1:技術者に限らず、誰かへの作業指示等が関係する場合は常にそうかしら。つまり業務、ってこと

*2:言葉尻は違ったかも